先日の「ゆとり教育」がらみのエントリに関連して。昨日から
斉藤貴男『教育改革と新自由主義』を読んでました。
“近年の教育改革によって、誰が得をしているのか”を平易に描き出している良書です。彼の主張を大雑把にまとめると以下の通り。
「ゆとり教育」「通学区域の自由化」「中高一貫制度の導入」「個性重視の教育」などの教育改革路線は、教育の機会均等を捨ててエリート教育を目指すものに他ならない。上に立つべき人間とそうでない人間とを区別し、前者には高度な教育を、後者には上に立つものへの従順さを養うことを目指している。これは政財界の要請による動きである。
このようにまとめてしまうと、サヨクが被害妄想で何か言っていると受け止められてしまうのかな。けれど実際に本を読んでもらえれば分かるけれど、教育改革推進者たちの言葉によって、このことは証拠づけられている。本文からちょっと長いけれど引用する。
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「できんものはできんままでけっこう。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、これからは出来る者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえればいいんです」
2000年7月、私のインタビューに答え、教育課程審議会の前会長だった三浦朱門氏はこういいました。(中略)ちょうど、三割削減の学習指導要領が告示された時期だったので、その学習指導要領の下敷きとなる答申を出した教育課程審議会(教課審)の会長であった三浦氏に取材にいったのです。
学力低下はないのか、という私の問いに、三浦氏は「学力低下は予測しうる不安というか、覚悟しながら教課審をやっとりました。嫌、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです」と答え、前述の発言となりました。
「国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければいけません。それが“ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」
個人的な考えなのか、教課審全体の考えなのかと問うと、「いくら会長でも、私の考えだけで審議会は回りませんよ。メンバーの意見はみんな同じでした」と明確な答えが返ってきました。
文部省が「今まではつめこみ教育だったため、落ちこぼれや勉強ぎらいを生んできた。ハードルを低くすることで落ちこぼれをなくし、学習への意欲を高める」と説明してきたゆとり教育の意義は建て前で、本当の目的はエリート教育をすることだったわけです。
(斉藤貴男『教育改革と新自由主義』 pp.25-27)
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「個性尊重」によって「天才」エリートの才能は更に伸ばされ、国家のために役に立つ人材となる一方で、彼の言うような「非才」「無才」は「出来ないのも個性」だからと置き去りにされる。習熟度別や公立中高一貫校の導入によって、子どもたちは早くから成績で選抜・選別されるようになってきたが、彼らの進むレールは早くも完全に分けられてしまうことになる。
教育とは福祉的性格を強く持つものだと私は思っている。同年代の様々な社会階層の人、エスニックマイノリティなどが区別なく集まって過ごすことの出来る場というのは、学校しかない(成人になるにつれ、それぞれ棲み分けや囲い込みが進んでいくので)。しかし新自由主義的教育改革路線はそうした共生の場さえも、最小化しようとしている。私はその点において、現在の教育改革路線には絶対に反対しなくてはいけないと思っている。